ドガ・ダンス・デッサン

ことばにする練習帳 @hase_3sec

congratulationと書かれたチョコソースをスプーンで撫でる夜遠く離れた実家では金木犀の木の下に墓穴が

 

※動物・ペットが死ぬ話が含まれます。

 

お盆休みに入る直前の金曜日、昔一緒に働いていた先輩と飲みに行くことになった。その女性は美味しい食べ物が好きな人で、美味しい食べ物を好きではない人はいないと思うが、とりわけお肉が好きだった。会えば毎回何かしらのお肉を焼いて食べていたから、今回もお肉を食べようと思ってお店を探す。県外から仕事終わりに東京に寄ってくれるということだったので、彼女の職場からアクセスの良さそうな駅を教えてもらった。「何が食べたいですか?私は焼肉か、サムギョプサルがいいです。」その提案に彼女も同意してくれる。そういえば、以前共通の知人と食べに行った韓国料理屋があったなと思い出してその話をすると、「いいですねえ」と彼女はそこへ行きましょうと言う。歯をきしませたくなるほど電話連絡が苦手な私はインターネットで予約できることに安心しながら予約ページで「席のみ」を選んだ。クーポンがあった。「スンドゥブ一杯無料」「デザートプレートサービス」。スンドゥブか……と少し考えて、スープをシェアするのって難しそうだなと「デザートプレートサービス」を追加した。お祝いの席やサプライズに、と書かれた文章に、特に祝うこともないけどデザート食べたいし、と安易な考えだった。予約確定ページのスクリーンショットを撮って、彼女に共有して、お礼の言葉をもらったが、それに対してはスタンプ一つで返した。

 

金曜日の仕事は忙しかった。お盆休み前だから、私の休暇中に出社する人たちに仕事の引き継ぎをして、休む分前倒す必要がある作業を急いで、かつ冷静に処理する必要があった。会社を出る直前まで進捗の確認をした。でもそれもエイヤアとメールを一本送ればなんとか終わって、いつもより早く会社を出る。待ち合わせ時間までかなり余裕があったから、美術館へ足を運んだ。仕事終わりの頭ではたくさんの絵画を見ることが困難で、よく冷えた館内でも頭はプンプンと茹っていた。朝から夕方まで頭がフル稼働していたからかそのあともずっと怠さが体に残り続けていた。外の日差しは刺すように痛かった。

 

待ち合わせ時間になっても彼女はこなかった。事前に「仕事で遅れます」と連絡があったので、特に気にせず韓国料理屋に入る。ビールとサラダを頼んで、読みかけの本をめくった。大衆居酒屋的な店内は賑やかで、4人がけの席に座りながらイヤホンをして一人黙々と読書する人間は異質だったかもしれない。待ってる途中にスマホの充電は切れて時間はわからなかったけれど、20ページほど読み進めたところで彼女は満面の笑顔を浮かべながらやってきた。「遅れてすみません」「この前は私が仕事で遅れたので、気にしないでください」ビールで乾杯して、あとは仕事の話をしたり、日常の話をしたり、共通の知り合いの話をした。間に肉を焼いた。肉は美味しかったけれど、彼女の朗らかな声を聞く方に集中していて、そこまで味わうことをしなかったことを反省している。「充電切れちゃって見れなかったんですけど、なんかメッセージ送ってくれてました?」と聞くと、彼女はモバイルバッテリーを貸してくれた。プラグを挿しても充電が開始されず困ったけれど、プラグの上下を逆にしたら認識して程なくスマホが復活した。

 

 お肉2人前と、チジミと、それから何杯かのお酒を飲んだあと、店員さんに「デザートプレートのクーポンって有効ですか?」と確認する。「もちろんです。今お持ちしますね」「あとサワー2つ」それから少ししてデザートプレートが運ばれてきた。いくつかのミニスイーツが積み重なった大皿だった。お皿の縁には"congratulation"とチョコペンで書かれていた。「記念日でもないのに祝われてしまった」「何のお祝いでしょう」「何かしらに乾杯!」、お酒の入った2人は満腹になりつつある胃袋を鎮めるようにダラダラとスプーンでデザートを食べていく。本当に、今日はなんでもない日で、デザートプレートのクーポンを選んだのもたまたまで、それなのにお祝いの言葉をもらうなんて、なんて面白い日なんだろう。そんなことを考えながら、彼女とありきたりな話題の続きをゆったりしたテンポで 再開する。

 

プレートに乗ったアイスが溶け出して、8割ほど液体に戻っていた頃、私のスマホ画面が光った。なんだろう、と思って画面を盗み見る。「犬が死んだ。」それは実家の母親からだった。犬が死んだ。私の愛犬が死んだ。驚くことはなかった。愛犬はここ1年ほど老衰でかなり体を悪くしていた。愛犬が死んだことには驚かなかった。ただ、目の前で喋る彼女と私の間に置かれた大皿の上にはチョコソースで"congratulation"という文字が損なわれることなくその文字の形を成していた。おめでとう。おめでとう。おめでとう?母親は犬が死んだ時の様子を詳細に文章で綴って送った。私はそれを横目で眺めながら彼女と会話を続ける。何もないように。変な気を遣わせないように。平静を保てていたとは思う。だけど、急に"congratulation"があらゆる意味を持ってそこに用意されたように感じて目が回りそうだった。何でもない日のお祝いだねと笑いあってた数十分後に、私にとって何でもなくなってしまった日が、おめでとうの言葉に様々な解釈をつけ始める。

 

 正直な話をすれば、この記事を書いている理由は、愛犬が死んで悲しいからではない。ただその日に起きた出来事がとても奇妙で書き残しておかなければと思ったから。私は自分の日常を平凡でありふれたものだと思っている。だから非日常的な場面に遭遇すると、記録しておきたくなる。愛犬が死んだ実感はあまりない。愛犬と書くけれど私がペットを愛していたかわからない。母親が解読しづらい文章で長く長く犬の死後や死ぬ直前の様子を送ってきても1行の簡素な返事しかできなかった。将来猫を飼いたいとずっと思っている。月収が上がったら、広い家に引っ越して猫を飼おうと思っていた。だけど、こんな私に動物を飼う資格はないと気づかされる。もっと言えば、他人が死ぬ感覚だってわからない。祖父母が生まれる前に亡くなっていることもあって、幸いなことに20年と数年の間大切な人や身近な人が死んでしまう経験をしてこなかった。だから、誰かが亡くなったときどんな反応をすればいいか未だにわからない。それが恐ろしい。そして愛犬が亡くなった。案の定、特にどうすることも、感情が乱れることもなく、そうなんだ、と受け止める。自分の家族がいつか死んでしまうときもこんな感じだったらどうしようと背筋が凍る。

 

『チワワちゃん』という映画が好きだ。その映画の中では、若者たちのグループの中心だった女の子が死んでしまったとき、お別れ会をしていた。お別れ会でグループの面々はインカメラで動画を撮り、一人一人女の子との思い出を語る。でもそれは泣けるようなエピソードを話すのでもなく、真剣に彼女への想いを伝えるのでもなく、どこかおちゃらけた空気感の中で日常からの地続きのように行われていた。まるで本当に彼女の死を悲しんでいる人なんていないかのように感じ取れて、なんでこんな軽薄に人の死を描けるのかと見た当時はそのシーンに対して憤っていた。だけど、今は心の拠り所になりつつある。

 

酔いと混沌とした現実に頭を揺さぶられながらどうにか家に帰ると胃が腫れたようにどくどくと嫌な自己主張をする。吐き気だ。朝から熱い日差しを大量に浴びたから体が変な熱気に浮かされていた。ベッドに倒れこむ。寝てしまおう。寝ていればきっと消化されて朝にはきっと気分も良くなる。寝るまでの間は一瞬だった。目が覚めたとき、朝の3時だった。気持ち悪さは相変わらず続いていて、そのために途中何度か目が覚めた気がする。諦めて吐いてしまおうと思った。ボサボサの髪とドロドロの化粧をした女が廊下を歩くのを全身鏡で見た。トイレに入る。伸びた髪を手早くヘアゴムでまとめて眼鏡を外した。ここ数年で胃腸が弱くなって、それに比例して吐く時の手際が上手になった。ゲエゲエと嘔吐しながら、死ぬ間際の愛犬がよく吐いていたと母親が言っていたことを思い出した。もう何も出せないというまで出し切ってベッドに戻る。熱中症だったらこのまま死ぬかもしれないなと考えて、死ぬって何なんだろうと深く沈んでいく前に、いつの間にかもう一度眠っていた。

 

翌朝、実家の庭の、金木犀の木の下に愛犬は埋葬された。その穴は昨日の夜、父親が掘った穴だった。