ドガ・ダンス・デッサン

ことばにする練習帳 @hase_3sec

冬の光

金曜日、夜行バスで大阪へ行くちょうどその数時間前、わたしは借りてきた映画を一本も見ないまま返すことになりそうという現況に気付き大体二時間くらいで見れる映画はなかったかとレンタルバッグを漁る。なるべく短いもの、86分、手に取る。というわけでベルイマンの『冬の光』を観ることになるのだけど、時間に追われながら映画を鑑賞するのは非常に気が散ることだと初めて気付く。しかもバスに間に合いそうにないと深夜料金割増のタクシーを乗り回す羽目になるなんて再生ボタンを押したばかりのわたしはまだ知らない。

 

最近になってようやく白黒映画の方が美しいのではないかと思いだす。トマスの白いまつ毛とマルタの黒い瞳はグレースケールによく映える。瞬くことで時間は驚異的な速さで経過する。中国への恐怖で心を閉ざすヨーナスに、神を信じなさい、と言うトマスの言葉に返す、「なんのために?」マルタの手紙を手に取るトマス、画面をマルタが独占して手紙の内容を語り始める、画面の向こうのわたしにトマスを見つめて。手紙に書かれた「あなたは不信心」という言葉でトマスは自身の信仰が偽りであることを認めてしまう彼はそうして自殺を心に決めたヨーナスに「創造主も被造主もいない」と告げるけれど自殺志願者は本当は神の存在を牧師トマスに説かれたかったのではと思えてしまう。けれどマルタの手紙で改心したトマスにヨーナスは救えない。教会の壁にもたれるマルタの背には死神、のような、絵。二人の元へ知らされるヨーナスの死、トマスが手紙をもう少し後で読んでいれば、また運命はかわっていたのかもしれない、マルタが手紙を書かなければ。タイミングの問題と言ってしまえばそれまでだけれど、“神の不在”を扱っているというこの作品だからこそ逆に、そこに神の存在を確信してしまう、不在なだけで。先日サークルの後輩(というのも気恥ずかしいが)とご飯を食べに行った時、映画の話をする。たった一瞬でもいいから絵になる瞬間があればそれでいい、というようなことを話す。わたしは『冬の光』をあまりおもしろいと思えなかったけれど、それでも最後の瞬間トマスとマルタ、たった二人で行われる祭儀の瞬間と言うかシチュエーションはただそのシーンだけで観てよかったと思わせるものがある。「死ぬ間際に神を裏切ったことがなによりも苦しい」、という言葉を抱いて、トマスが生きていくことになるのであれば。一層。美しい。

 

中国が原発を持つことに怯えて自殺を決意する自殺志願者をわたしたちは笑えるのだろうか。その理由を、リアリティがない、というコメントを見て、本当にリアリティがないと言い切ってしまうにはまだわたしたちは現実を理解しきれていないような。シックスセンス。まあそれはさておき、聞いたことのあるような気がする言語に冒頭部を何度も巻き戻した。ロシア語のようにもドイツ語のようにも聞こえるけれどどうやらスウェーデン語らしい。Vi ses!