ドガ・ダンス・デッサン

ことばにする練習帳 @hase_3sec

2020年01月19日の10分とすこし

2020/01/19

朝起きて着替えて家を出る。眠すぎて一日中目が回っていた。あるサイトのポイントとクーポンを駆使してホテルのビュッフェランチへ行く。例の如く今月もお金がなさすぎて笑えるくらいなのにポイントとクーポンを使っているとはいえホテルでビュッフェを食べているじぶんのチグハグな感じがおかしかったししかも、ビュッフェランチに来ている人は大体家族づれか友人同士の集まりといった風で1人で料理を食べている人は他にいなかった。それでもよく観察していると、低年齢の子供を連れてご飯を食べている女性がいて、子供の面倒を見ながらではあるけれどその人にとっては数少ない自由な時間の一つなのかもしれないと思う。それから、すこし離れた席ですごく静かなのに確かにお互いを気遣いあっている3人家族がいて、その過剰ではない落ち着いた空気が都会らしくドラマのようだった。ひとりでいるといろんなことの表面がよく見える。見えていないのは自分自身だけだ。

午後ジムの体験に行ってそのまま入会を決める。家に帰って体重計に乗るとあれだけ汗をかいて筋肉を動かしたのに朝から体重が1.5kgも増えていてビュッフェというのは恐ろしいものだと思った。(13分)

2020年01月15日-2020年01月18日の10分とすこし

2020/01/15-2020/01/17

仕事へ行く。仕事が忙しくて寝て起きて仕事して寝て起きて仕事して寝て起きて仕事した。毎日日記を書くと言いながらも三日坊主にすらなれていなくてため息をつく。三日坊主になることにだってまず努力が必要なのであった。ワイヤレスイヤホンのケースを紛失したので通勤で使う電車の落とし物センターへ行った。財布やスマホを落として探しにきている人が何人かいた。財布やスマホを落とすことってそんなにあるんだと思ったりしつつ財布やスマホを落としたらめちゃめちゃ困るだろうなと眺めながら自分の番号札が呼ばれるのを待つ。呼ばれる。窓口の駅員さんにワイヤレスイヤホンのケースを落としました色は黒で形は長方形でサウンドコアって書いてるやつですと伝えるとあるみたいです!!と元気に返してくれたが保管庫から戻ってきた駅員さんの手が持っていたイヤホンケースはまた別のサウンドコアだった。形状が全然違った。違うみたいですと言うと駅員さんもちょっと悲しそうにされていい人だと思った。ワイヤレスイヤホンケースを落とすことってそんなにあるんだとも思った。

 

2020/01/18

朝起きて着替えて外へ出る。昼前の東京の街は小雨が降っていて寒いなと震えながら歩いているそのうちに雨粒が雪に変わっていく。奇跡みたいな光景だった。電車に乗る。コートには雪がひっついていてすこししたら水になりすこししたら乾いた。電車を降りて階段を登ったり改札を通ったりする。ホテルでランチコースを食べる。近くに座っていた男女の会話を聞きながらサラダスープメインデザート黙々と食べる。移動する。所用を済ませるついでに通りがかった新文芸坐で「女が階段を上る時」が上映していたので思わずチケットを買い映画館に入る。「女が階段を上る時」の前に「無法松の一生」が始まる。この映画ぜんぜん知らないけれど有名なんだろうかなんて思いながら見始めたが5分も経たずに物語の世界に引き込まれた。見終わる頃には堪えきれなかった涙がぼろりと零れてティッシュで顔を拭おうとしたらエンドロールがなく場内が一瞬でパッと明るくなった。そそくさと乱暴に顔を拭う。あとで調べたら無法松の一生の主演は三船敏郎だった。三船敏郎の爛々と輝く瞳が忘れられなかった。三船敏郎をよく知らない。高峰秀子もよく知らない。それでも今も頭に焼きついている。(19分)

2020年01月14日の10分とすこし

2020/01/14

仕事へ行く。怒り狂って仕事が終わる。深夜に待ち合わせしてラーメンを食べに行く。いつからそうなったのかわからないけれど待ち合わせがとても苦痛に感じる人間だ。待ち合わせ場所で私を待つ誰かの姿を見るとたまらなく恥ずかしい。だから息を殺してなるべく。なるべく前を歩く人の影に隠れて死角から登場したい思っている。誰かに待たれると言う行為が恥ずかしいと言うのももちろんある(もちろん?)、待ち合わせ場所に現れる私の存在を可能な限り見られたくない。ちょっと距離のある時に待ち合わせ相手と互いに存在を認識しあって微笑みあったり手を振ったりラインしたりするあの時に少し居心地の悪さを感じる。静止する自分はまだ許容範囲だけれど動く私の気持ち悪さ。人に見られると言う行為が耐え難くなったのは運動音痴で走る姿が変だと言われたり見た目をからかわれていた幼少時代がきっかけのような気がする。たぶん。できれば私が先に待ち合わせ場所に到着していたいのに救い難いことに遅刻癖まであって自己矛盾でもうどこへもいけない。いくべきではない。せめて私を待つ誰かがせめてスマホをいじったり本を読んだり音楽を聴いてどこか眺めていたりコーヒーを飲んでぼんやりしてくれればいい。いややっぱり一番は人を待たせないに尽きる。じぶんのことばかりで嫌になるね。折衷案で透明マントはどうでしょう。

半ラーメンと半チャーハンにすればカロリーは1/2になるかもしれないなんて考えていたら翌朝の体重計が食べた分のラーメンとチャーハンの重さをしっかり数えていてその愚かさにまたどうしようもなくなった。(25分)

2020年01月13日の10分とすこし

2020/01/13

朝起きる。記憶がすでにあいまいで、もしかしたら昼だったかもしれない。やっぱり朝だった。映画を観に行こうと思って9時にアラームを設定して、もうちょっと寝ていられるなと二度寝して、体調が良くないのでやっぱり夕方行けたら行こうと三度寝した。

 

12時半に起き上がる。ご飯を作って洗濯物をする。いい天気だった。機関車トーマスのチューイングキャンディーを食べる。15時に賃貸の管理会社の人が来る。ジャージで対応。ジャージじゃなくてちゃんとした格好に着替えているべきだったと反省。次回以降そうしましょう。体調が優れなくてその後また寝る。起きたら17時だった。映画と体調を天秤にかけて今日は家で何か見ればいいやという決断を下す。なぜか寝る。起きる。時計を見ると20時だった。また自分のことが嫌になる。機関車トーマスのチューイングキャンディーを食べる。コンビニへ行っておにぎりとサンドイッチとチョコとポップコーンとアイスを買う。23時ごろになんとなく食べ終わる。本を読む。建築に関する内容。アヒルと装飾された小屋。原っぱと遊園地。おもしろい。機関車トーマスのチューイングキャンディーを食べる。機関車トーマスのチューイングキャンディーを箱買いした結果1日に3個くらい食べている。自分の食欲と機関車トーマスのチューイングキャンディーの中毒性の高さに恐れ og 慄き。総括すると今日は何もしなかった。食べた分のカロリーを消費するまでは寝ないようにしたい。なんとなくピンクフロイドを流す。夜は長い。(18分)

2020年01月12日の10分とすこし

日記を書く事にしようと思ったのは124日前のことだった。それ以来日記は一度も書いていない。またやりもしないことをやると言ってしまったじぶんに自己嫌悪している。「日記を書く」と書いた日からずっと自己嫌悪し続けている。日記を書くということを嘘にしたかったわけでもなく。日記に書く内容を決めて、どういう風に文章に起こしたらほんとうの事になるのか考え続けていたら、書くのであればすこしでも(じぶんにとって)意味があるものにしないと、なんて考え始めてどんどん気分が重くなって、ちびちびと下書きしたり肉付けしたりした文章の切れ端をメモ帳に書いたり留めたりして124日経っていた。浦島太郎かもしれない。そんな124日経った今朝何気なくいつものようにSNS(と書くがこれはtwitterのこと)を眺めていると「”書けば面白いものができる”より”毎日10分文章を書く”という目標の方が難しい」(要約)というある作家の言葉を見かけて、そうだなと思った。ほんとうにそうだなと思った。いつも思っていることも改めて他人の言葉の形になると胸に刺さる。思いっきり。わたしの毎日はおもしろいことがそんなにない(わたしはおもしろいといつも感じているが他人に話すまでのことではない)ので、日記も一ヶ月に一度か二度でいいかしらと考えていたけれど、毎日何かを書いてみたいと思った。仕事をしてるだけの日や何もない日や何もしない日もあるので、1日10分だけ。気分が乗ればそれ以上。ストップウォッチを片手に。この文章を書いている今は書き始めてから16分です。とても長い序文。

 

2020/01/12

朝9時に起きる。9時とすこしにモーニングコールが鳴る。寝ぼけた声はテンションが低めでわたしがすこし笑っても笑い返してくれなくてなぜかそれが可笑しかった。待ち合わせの時間から逆算して二度寝できるなと思ったから二度寝した。9時半に起きるつもりが45分だった。慌てて歯を磨いて化粧をして服を着替えて家を出る。ニットとジーパンとコートと靴の素材の感じが全部バラバラで駅へ向かう途中ものすごく恥ずかしくなる。服をカッコよく着こなすことができない。今日も。電車に乗っている間は昨日見たblank13のことを考えていた。blank13の主題歌がとても気に入っていて何度も聞く。何度も。「キッチンにはハイライトとウィスキーグラス どこにでもあるような家族の風景」という歌い出しに、そんなわけあるかと聞きたくなったが、そういえばわたしの家はケントと赤い灰皿と焼酎をいれるガラスのコップだった。日本酒だったかもしれない。不和の家庭を描く邦画が好きだ。そういう映画の主題歌は大体好きになることが多い。落ち着いた声にゆったりとしたテンポ、鋭いわけでも鈍すぎるわけでもない歌詞。大体と言ってもサンプル数は今のところ3しかない。

 

浅草駅に着く。最初に1人と合流して、あとから2人も合流して4人になった。人の波に流され流され浅草寺へ。賽銭箱の前はベルトコンベアーのようでお金を投げた人から立ち去っていきお金を投げて立ち去る。今年の目標も祈りも感謝も挨拶も全部それどころではなかった。でもおみくじを引くからいい。おみくじを引くと大吉だったが各運気の項目が省略されて「油断すると災いアリ」と注記されていた。わたしの他に2人大吉を引いた人がいたのに特別な忠告のあるおみくじを引いたのはわたしだけだった。ここ数年はおみくじを引くたびに「慢心するな」「調子に乗るな」と書かれていてその度に心が引き締まるがたまにはわたしを手放しで気分良くしてくれてもいいんじゃないかとも思う。

 

夜。友達と会う。去年の夏以来会っていなかった。近況を聞いたり話したり話したりする。ちょっとして、転職はしないのかと聞かれる。会社に勤め始めて5年ほど経ってくると、会社の同期や友達が転職の雰囲気(と言えばいいのか?)に慣れてくる頃合いで、同年代の人と話していると、3回に5回くらい転職の話になる。今の仕事でつらいことも苦しいこともごく稀にアホボケカスクソと思ったりすることもあるけど、まだしばらく頑張りたい気持ちもあって、いつも悩んでいる。転職だけじゃなくて、これから先どう生きるのか、何を大事にして何を捨てていくのか。それは当然そうなんだけど、20代後半になるとある日突然考えることが大量に現れていつの間にか背中が丸まって呼吸が重くなっていく。転職を選べないことと文章を書かないことがダブってさらに憂鬱な気分になる。お酒を飲みながら好きなように喋って、お店を変えてビールを飲んでビールを飲んで後はひたすら水を飲む。ひたすら水を飲んでひたすら飲んで飲んで10分に1回くらいトイレに行く。帰りの電車で残バッテリーが1%のスマホで音楽を聞いたりネットサーフィンをしたりする。電源が落ちる。やることがなくなってスマホの画面から目を離すと、斜め前にトリーバーチのロゴが光るエナメルの靴があった。その靴は輝いていた。目線を上げると座っていたのは50代前後の人だった。ピカピカに光るトリーバーチを履いているのはイカした社会人風の若い女性だと勝手に想像していた自分に衝撃を受けた。それからかっこいいと思った。すこし離れた席ではフェイスタオル越しに鼻をほじっている人がいた。何度も鼻をほじってからタオルを鞄にしまう。それなのにその人の唇に鼻くそがついていて、あ、と思った。降りる駅が来たので電車を降りた。(70分)

 

「この物語はフィクションです。」

待てができない子供だった。こういった書き出しの小説かエッセイかブログ記事を読んだことがある気がする。書き始める前にインターネットで検索してみたけれどそれらしいものは見つからなかった。なんだか気になるので知っている人がいたら教えて欲しい。昔から待てができない子供だった。今は大人である。今も待てはできない。我輩は猫ではない。試験の結果発表やゲームの発売日、片思いしていた相手に会う約束などは楽しみなものでもある一方苦痛でもあった。カレンダーを見るたびにあと何日と数えて、なかなか過ぎない日々にため息を吐く。1日がなかなか終わらないことが憂鬱で、起きているときはお気に入りのゲームばかりしていた。あとは寝ている。昔から眠ってばかりいた。今もそんなに変わらない。待っている間気が狂いそうなほど落ち着かなくて、そのことばかり夢に見て、起きて夢だったことにまた落ち込む。何も手がつかなくて、だからと言って自分を叱責することなく、気になってしょうがないんだからしょうがないよねと甘やかしてばかりいた。そうして今のこのザマである。ハハッざまあみろ。会社勤めを始めてからは眠ってばかりいられなくて平日5日間働く。つまらないことから大変なことまで大小様々な何かしらの仕事を処理して、気は紛れるけどそれでもやっぱり落ち着かない。1日1日とても長く感じる、仕事はあっという間に終わるわけでもないしむしろ就業している時間までゴリゴリに引き伸ばされている体感。早く帰れた日や土日にはやることもやりたいこともやらなきゃいけないこともなんだってあるはずなのにネットサーフィンして布団でダラダラして、少し本を捲っては眠ってみたり、あとはひたすら飲酒して喫煙してコンビニで買ってきたお弁当を食べて、早く寝ればいいのにネットサーフィンがやめられなくて夜更かしする。休みの前日に遅くまで起きていると当然次の日は遅くまで寝ることになって、それで半日が潰れるとその日まで0.5日分進んだと考える。バカでしょう。バカすぎる。生活リズムはガタガタだし栄養バランスは壊滅的で、こんな生活してたら早死にするよなと考えるけれど寿命を燃やすように生きていれば相対的に生きている間の待つ時間が短くなるのでは?なんて思いついて馬鹿さ加減に反吐が出た。この物語はフィクションです。

 

「この物語はフィクションです。」という言葉が好きだ。そう書いてくれているだけで安心感がある。知人がツイッターのプロフィールに「この物語はフィクションです。」と書いていて、あ、いいなと思った。その一言だけで、現実がうやむやになる。本当のことが10割書かれていようが、一切書かれていなかろうが、「この物語はフィクションです。」以前街で見かけたとある光景をツイートしたら、バズってまとめサイトにまとめられた。コメント欄に「嘘松」と書かれているのを見かけて速攻で記事削除申し立てをしようとしたらどこにも問い合わせフォームがなかった。嘘だと思うなら嘘でもいいんですけど嘘ついてないし嘘みたいな出来事って目を凝らせば実はたくさんある。最初から「この物語はフィクションです。」と書いておけばよかったと思った。というかそもそも喫茶店で隣の人たちが喋る詐欺じみた会話や電車の中で行われる非日常的な行為というのはどこまで文章にしていいんだろう。面白いからといって盗撮してはいけないと同じように面白いからといって文章にしてはいけないんじゃないかなと考え始めて壁にぶち当たった。

 

この間人に誘ってもらって同人誌に寄稿した。エッセイを書いた。秒速5センチメートルと自分語りというテーマだった。まさか同人誌に原稿を載せてもらうなんてことあるなんて思ってなくて、しかも直接の知り合いではなかったし、誘われたときは驚いて飛び跳ねてしまう。もう会えない人との思い出は一生汚れず輝いてるしなんならもう会えないというだけでなによりも美しくなってしまうというようなことを書いたりした。実はその中で一つだけ書いていないことがあって、それはものすごく些細だけど読む際に文章の意味が少し変わってしまうような内容だった。でも書いていなくても書きたかったことに対する熱量や思いに嘘はないからあえて省略した。ごく数人の友達やフォロワーの人が読んでとてもよかったと伝えてくれて、お世辞かもしれないけれどものすごく嬉しかった。書かないことは嘘になるのかな。見えないものは存在しないのかな。書かれていることだけが本当ではないし、見えているものだってまやかしかもしれない。結局全部フィクションなんだよって言ったら、それはフィクションになる?

 

思うことがあって日記を書く事にした。日記を書くことはいいことだっててんちむYOUTUBEで言ってた。最近YOUTUBERの動画を見ることにハマりつつあるらしい。圧倒的消費活動。今日も私はある日を待ちながらコンビニ弁当を食べて飲酒して喫煙してネットサーフィンしてダラダラ夜更かしして持て余した時間を消費する。この物語はフィクションです。

 

 

 

 

 

congratulationと書かれたチョコソースをスプーンで撫でる夜遠く離れた実家では金木犀の木の下に墓穴が

 

※動物・ペットが死ぬ話が含まれます。

 

お盆休みに入る直前の金曜日、昔一緒に働いていた先輩と飲みに行くことになった。その女性は美味しい食べ物が好きな人で、美味しい食べ物を好きではない人はいないと思うが、とりわけお肉が好きだった。会えば毎回何かしらのお肉を焼いて食べていたから、今回もお肉を食べようと思ってお店を探す。県外から仕事終わりに東京に寄ってくれるということだったので、彼女の職場からアクセスの良さそうな駅を教えてもらった。「何が食べたいですか?私は焼肉か、サムギョプサルがいいです。」その提案に彼女も同意してくれる。そういえば、以前共通の知人と食べに行った韓国料理屋があったなと思い出してその話をすると、「いいですねえ」と彼女はそこへ行きましょうと言う。歯をきしませたくなるほど電話連絡が苦手な私はインターネットで予約できることに安心しながら予約ページで「席のみ」を選んだ。クーポンがあった。「スンドゥブ一杯無料」「デザートプレートサービス」。スンドゥブか……と少し考えて、スープをシェアするのって難しそうだなと「デザートプレートサービス」を追加した。お祝いの席やサプライズに、と書かれた文章に、特に祝うこともないけどデザート食べたいし、と安易な考えだった。予約確定ページのスクリーンショットを撮って、彼女に共有して、お礼の言葉をもらったが、それに対してはスタンプ一つで返した。

 

金曜日の仕事は忙しかった。お盆休み前だから、私の休暇中に出社する人たちに仕事の引き継ぎをして、休む分前倒す必要がある作業を急いで、かつ冷静に処理する必要があった。会社を出る直前まで進捗の確認をした。でもそれもエイヤアとメールを一本送ればなんとか終わって、いつもより早く会社を出る。待ち合わせ時間までかなり余裕があったから、美術館へ足を運んだ。仕事終わりの頭ではたくさんの絵画を見ることが困難で、よく冷えた館内でも頭はプンプンと茹っていた。朝から夕方まで頭がフル稼働していたからかそのあともずっと怠さが体に残り続けていた。外の日差しは刺すように痛かった。

 

待ち合わせ時間になっても彼女はこなかった。事前に「仕事で遅れます」と連絡があったので、特に気にせず韓国料理屋に入る。ビールとサラダを頼んで、読みかけの本をめくった。大衆居酒屋的な店内は賑やかで、4人がけの席に座りながらイヤホンをして一人黙々と読書する人間は異質だったかもしれない。待ってる途中にスマホの充電は切れて時間はわからなかったけれど、20ページほど読み進めたところで彼女は満面の笑顔を浮かべながらやってきた。「遅れてすみません」「この前は私が仕事で遅れたので、気にしないでください」ビールで乾杯して、あとは仕事の話をしたり、日常の話をしたり、共通の知り合いの話をした。間に肉を焼いた。肉は美味しかったけれど、彼女の朗らかな声を聞く方に集中していて、そこまで味わうことをしなかったことを反省している。「充電切れちゃって見れなかったんですけど、なんかメッセージ送ってくれてました?」と聞くと、彼女はモバイルバッテリーを貸してくれた。プラグを挿しても充電が開始されず困ったけれど、プラグの上下を逆にしたら認識して程なくスマホが復活した。

 

 お肉2人前と、チジミと、それから何杯かのお酒を飲んだあと、店員さんに「デザートプレートのクーポンって有効ですか?」と確認する。「もちろんです。今お持ちしますね」「あとサワー2つ」それから少ししてデザートプレートが運ばれてきた。いくつかのミニスイーツが積み重なった大皿だった。お皿の縁には"congratulation"とチョコペンで書かれていた。「記念日でもないのに祝われてしまった」「何のお祝いでしょう」「何かしらに乾杯!」、お酒の入った2人は満腹になりつつある胃袋を鎮めるようにダラダラとスプーンでデザートを食べていく。本当に、今日はなんでもない日で、デザートプレートのクーポンを選んだのもたまたまで、それなのにお祝いの言葉をもらうなんて、なんて面白い日なんだろう。そんなことを考えながら、彼女とありきたりな話題の続きをゆったりしたテンポで 再開する。

 

プレートに乗ったアイスが溶け出して、8割ほど液体に戻っていた頃、私のスマホ画面が光った。なんだろう、と思って画面を盗み見る。「犬が死んだ。」それは実家の母親からだった。犬が死んだ。私の愛犬が死んだ。驚くことはなかった。愛犬はここ1年ほど老衰でかなり体を悪くしていた。愛犬が死んだことには驚かなかった。ただ、目の前で喋る彼女と私の間に置かれた大皿の上にはチョコソースで"congratulation"という文字が損なわれることなくその文字の形を成していた。おめでとう。おめでとう。おめでとう?母親は犬が死んだ時の様子を詳細に文章で綴って送った。私はそれを横目で眺めながら彼女と会話を続ける。何もないように。変な気を遣わせないように。平静を保てていたとは思う。だけど、急に"congratulation"があらゆる意味を持ってそこに用意されたように感じて目が回りそうだった。何でもない日のお祝いだねと笑いあってた数十分後に、私にとって何でもなくなってしまった日が、おめでとうの言葉に様々な解釈をつけ始める。

 

 正直な話をすれば、この記事を書いている理由は、愛犬が死んで悲しいからではない。ただその日に起きた出来事がとても奇妙で書き残しておかなければと思ったから。私は自分の日常を平凡でありふれたものだと思っている。だから非日常的な場面に遭遇すると、記録しておきたくなる。愛犬が死んだ実感はあまりない。愛犬と書くけれど私がペットを愛していたかわからない。母親が解読しづらい文章で長く長く犬の死後や死ぬ直前の様子を送ってきても1行の簡素な返事しかできなかった。将来猫を飼いたいとずっと思っている。月収が上がったら、広い家に引っ越して猫を飼おうと思っていた。だけど、こんな私に動物を飼う資格はないと気づかされる。もっと言えば、他人が死ぬ感覚だってわからない。祖父母が生まれる前に亡くなっていることもあって、幸いなことに20年と数年の間大切な人や身近な人が死んでしまう経験をしてこなかった。だから、誰かが亡くなったときどんな反応をすればいいか未だにわからない。それが恐ろしい。そして愛犬が亡くなった。案の定、特にどうすることも、感情が乱れることもなく、そうなんだ、と受け止める。自分の家族がいつか死んでしまうときもこんな感じだったらどうしようと背筋が凍る。

 

『チワワちゃん』という映画が好きだ。その映画の中では、若者たちのグループの中心だった女の子が死んでしまったとき、お別れ会をしていた。お別れ会でグループの面々はインカメラで動画を撮り、一人一人女の子との思い出を語る。でもそれは泣けるようなエピソードを話すのでもなく、真剣に彼女への想いを伝えるのでもなく、どこかおちゃらけた空気感の中で日常からの地続きのように行われていた。まるで本当に彼女の死を悲しんでいる人なんていないかのように感じ取れて、なんでこんな軽薄に人の死を描けるのかと見た当時はそのシーンに対して憤っていた。だけど、今は心の拠り所になりつつある。

 

酔いと混沌とした現実に頭を揺さぶられながらどうにか家に帰ると胃が腫れたようにどくどくと嫌な自己主張をする。吐き気だ。朝から熱い日差しを大量に浴びたから体が変な熱気に浮かされていた。ベッドに倒れこむ。寝てしまおう。寝ていればきっと消化されて朝にはきっと気分も良くなる。寝るまでの間は一瞬だった。目が覚めたとき、朝の3時だった。気持ち悪さは相変わらず続いていて、そのために途中何度か目が覚めた気がする。諦めて吐いてしまおうと思った。ボサボサの髪とドロドロの化粧をした女が廊下を歩くのを全身鏡で見た。トイレに入る。伸びた髪を手早くヘアゴムでまとめて眼鏡を外した。ここ数年で胃腸が弱くなって、それに比例して吐く時の手際が上手になった。ゲエゲエと嘔吐しながら、死ぬ間際の愛犬がよく吐いていたと母親が言っていたことを思い出した。もう何も出せないというまで出し切ってベッドに戻る。熱中症だったらこのまま死ぬかもしれないなと考えて、死ぬって何なんだろうと深く沈んでいく前に、いつの間にかもう一度眠っていた。

 

翌朝、実家の庭の、金木犀の木の下に愛犬は埋葬された。その穴は昨日の夜、父親が掘った穴だった。