ドガ・ダンス・デッサン

ことばにする練習帳 @hase_3sec

『名前のない少年、脚のない少女』

 

どうして映画の感想はするっと書けるのに、小説の感想は書くのにうぶぶとワンクッション必要とするのだろうかと考えた時、映画には余白が多いから好き勝手適当なことを言えるからだと気付く。というのは、小説は、文字で語りつくされてしまっているから、ウーン、語りつくされてはいないけれど、やっぱり文字だから、そこに書かれてしまっているから、書かれた言葉を超えてわたしの言葉を書くということはとても億劫に感じてしまうのだ。それに引き替え映画は、考えるな感じろって言いながら好きなように映像から印象を受け取ることができちゃう。わたしは小心者だから、「そうじゃないよ」って言われるのが嫌いだ。だけど映像についてなら、思ったことを自由に言っても許される。ような気がする。だって登場人物が何を思ってどう行動しているかなんて読ませてくれなきゃわからないし。瞬間は証拠に残らないし。たとえDVDに焼かれても。文字はいつだってある種の確固たる物証だし。ズルくてごめん。今日、バイト先ではギャルがごねる。「エー私延滞なんてしてない、不正操作してるんじゃないですか?!証拠だしてよ!」

 

『名前のない少年、脚のない少女』をバイト前に急いでみる。バイト先の洋画青春コーナーにあったし、カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』も近くにあったし、ブラジルだし、てっきり爽やか青春夏の日差しボーイミーツガール系逃走劇だと思う。じゃん?レジに行く前のわたしに五回くらい言いたい。「名前もあるし、脚もあるじゃん!」

冒頭部分、ビニールを被った笑う女の子の首を絞める男の笑顔、を撮った映像、タイトル『呼吸』、動画サイトに投稿される。ウワ~オ。彼女と彼は、お互いの体を生き返らせるように、生きるということを異化するように、動画を撮る。投稿する。動画を撮る。名前のない僕、つまりミスター・タンブリンマン、つまり根暗厨二病エモ詩人思春期インターネットオタクは動画を通して彼女に惹かれる。僕の現実はインターネットの上にあって、彼女と彼もそこにいる。チャット友達は言う。「ボブ・ディランのライブに来いよ」「遠いよ」インターネットではいつだって会話できるのに、現実の距離ははるか遠く。作中で、迷える少年少女の輪郭はたびたびぼやけて溶けて、空気に混ざる。それは画質の問題であったり、夜の暗さのためであったり、レンズに彼女がセロファンをかざすから。皮膚の境界が曖昧になって、あなたとわたしと僕と彼と彼女は空気の中で1つになるね。彼女と彼は、境界を取り戻すために動画を撮り続けていたのではないかと思えるほどに。話の筋がよくわからなくなって、映画を見ながらスマートフォンであらすじを見る。彼女は彼と心中していて、彼女は死んで、彼は生き残っていたって知る。しかも彼女は根暗思春期の僕の唯一の友達のねーちゃんらしい。そんなことどこから読み取ればいいんだよって絶叫する。よくわかることは1つ、根暗オタクの僕は母親とうまくやっていけない、僕と母親の決定的なズレ、歩み寄るにはまだ時間が足りない。と見せかけてたまにはうまくやる。なんだよやればできんじゃん。そうやって、思春期から抜け出す一歩を踏みしめようとしていたから、クソ根暗は死んだ彼女と生き残った彼との、三位一体を超えて一人で橋を渡る。けれどそれがはるか遠くの地で行われるボブ・ディランのライブへ一人で行くためなのか、母親が心配そうに眼差している町へ帰る為なのか、わからない。わかるのはただ一つ、僕は去って行った、私・の前から。

 

最初はクソエモメンヘラ雰囲気ムービーだし映像は凝ってたけど中身スッカスカじゃんって期待して損したって罵ろうとしたけれど、けれどそう言い切ってしまえないことに気付く。だって私もかつてインターネットの中である時期を過ごしたから。自分の過去を投影してはじめて、この映画は不完全性を乗り越えるよう。ハンドルネームだけの存在、SNSの被膜、共鳴してくれる存在を待ちわびる。なんていうかあの時代に憧憬していたものがすべてこの映画に詰め込まれているんじゃないか~なんて。そうしてすべての思春期へ、この映画を。

 

 

 

冬の光

金曜日、夜行バスで大阪へ行くちょうどその数時間前、わたしは借りてきた映画を一本も見ないまま返すことになりそうという現況に気付き大体二時間くらいで見れる映画はなかったかとレンタルバッグを漁る。なるべく短いもの、86分、手に取る。というわけでベルイマンの『冬の光』を観ることになるのだけど、時間に追われながら映画を鑑賞するのは非常に気が散ることだと初めて気付く。しかもバスに間に合いそうにないと深夜料金割増のタクシーを乗り回す羽目になるなんて再生ボタンを押したばかりのわたしはまだ知らない。

 

最近になってようやく白黒映画の方が美しいのではないかと思いだす。トマスの白いまつ毛とマルタの黒い瞳はグレースケールによく映える。瞬くことで時間は驚異的な速さで経過する。中国への恐怖で心を閉ざすヨーナスに、神を信じなさい、と言うトマスの言葉に返す、「なんのために?」マルタの手紙を手に取るトマス、画面をマルタが独占して手紙の内容を語り始める、画面の向こうのわたしにトマスを見つめて。手紙に書かれた「あなたは不信心」という言葉でトマスは自身の信仰が偽りであることを認めてしまう彼はそうして自殺を心に決めたヨーナスに「創造主も被造主もいない」と告げるけれど自殺志願者は本当は神の存在を牧師トマスに説かれたかったのではと思えてしまう。けれどマルタの手紙で改心したトマスにヨーナスは救えない。教会の壁にもたれるマルタの背には死神、のような、絵。二人の元へ知らされるヨーナスの死、トマスが手紙をもう少し後で読んでいれば、また運命はかわっていたのかもしれない、マルタが手紙を書かなければ。タイミングの問題と言ってしまえばそれまでだけれど、“神の不在”を扱っているというこの作品だからこそ逆に、そこに神の存在を確信してしまう、不在なだけで。先日サークルの後輩(というのも気恥ずかしいが)とご飯を食べに行った時、映画の話をする。たった一瞬でもいいから絵になる瞬間があればそれでいい、というようなことを話す。わたしは『冬の光』をあまりおもしろいと思えなかったけれど、それでも最後の瞬間トマスとマルタ、たった二人で行われる祭儀の瞬間と言うかシチュエーションはただそのシーンだけで観てよかったと思わせるものがある。「死ぬ間際に神を裏切ったことがなによりも苦しい」、という言葉を抱いて、トマスが生きていくことになるのであれば。一層。美しい。

 

中国が原発を持つことに怯えて自殺を決意する自殺志願者をわたしたちは笑えるのだろうか。その理由を、リアリティがない、というコメントを見て、本当にリアリティがないと言い切ってしまうにはまだわたしたちは現実を理解しきれていないような。シックスセンス。まあそれはさておき、聞いたことのあるような気がする言語に冒頭部を何度も巻き戻した。ロシア語のようにもドイツ語のようにも聞こえるけれどどうやらスウェーデン語らしい。Vi ses!

 

 

“Though lovers be lost love shall not”

 

タルコフスキーの『惑星ソラリス』を借りたと思ったらソダーバーグのリメイク版であった。こういうところがバイト先の先輩(趣味風俗・18歳)に「注意力足りてないですね」って笑われるわたし(趣味昼寝・21歳)に成り果ててしまう要因なんだろうなと納得する。威厳が足りない。わたしは『ソラリス』を結構気に入ったのだけれど、調べてみると賛否両論むしろ否7割・その7割の声がとてもデカいといった感じでおろおろする。映画好きからしたらなにもわかっていないと思われてしまうのかな~。なんでもいい。

 

交互に明滅する現実と過去の後ろで流れるさびしさを孕む電子音。ポラ。ポラ。ポラ。文字にできない。「私をもう愛していないの?」と聞くレイアと「あなたは私を愛してくれた」というレイアはどちらが本物のレイアなのか考えれば考えるほど。ウーンわからないよ。ジバリアンは本当にケルヴィンに助けに来てほしかった?惑星・ソラリスに。ソラリスがなんなのか、何故複製が行われるのか、観察して何をするのか、ほとんど説明されないけど、語りつくされてしまうより、というかもはやそういう次元ではなかった。イライラしながらケルヴィンに意識を投影してテーマについて考えがちだったけれど、ふと自分が逆にソラリスによる複製の場合もありえるんだなと気付く。もし自分が複製だったらどうするのだろう、レイアの複製のように死を選ぶのか、スノーの複製のように意識の元を殺すのか。わたしは幼いころ離人症の気が強くて、たまに自分の体と意識が噛み合わなくなって手の動かし方もわかるし声も上手に出せるのにまるで操作性の悪いポンコツロボに乗っているような気分を味わったことが何度もあるけれど、複製レイアのいった感覚はこういう気分に似ているのかな、もしそうだとしたらわたしもソラリスによる複製の可能性があるのかもしれないなんて考える。なんてな~。ゴードンの複製が結局なにであったか明かされず、姿も出てこなかったけれど(たぶん)、もしかしてゴードンの複製もスノーの複製のようにゴードンを殺して入れ替わってしまっていたのかもしれないなんて火サスもびっくりな安直な発想をする。とかとか。とにかくレイアが美しかった。美しい人が何度も死を繰り返す、なにかのフェチに目覚めそうだ。痙攣しながら蘇る美女、ヨイ。けれど、複製のレイアを愛するという結末は受け入れがたかったし、わたしはケルヴィンには死んだ妻である記憶の中のレイアを選んでほしかったと思ってしまう。「たとえ愛する人亡くとも愛は死なず かくて死はその支配をやめる」という引用と、制作陣インタビューの「これはラブストーリーよ」という言葉がこの映画のすべてなんだろうな。「これはラブストーリーよ」なんて聞いたときは素っ頓狂な声をあげてタイムバーを戻しまくってしまったけれど、元来シチューエション萌族セカイ系過激派なわたしとしては三周回って逆に腑に落ちる。

 

それっぽくつらっと感想を書いてしまったけれど、実は文章に言い表せないほど『ソラリス』のことが好きだ。というか、どんな言葉にすればいいのか正直よくわかっていないままタイプを強打している深夜27時。言いたいことはたくさんある様な気がするのに読み込みが足りなくて語りつくせない。いつだってそんな人生。amazonのカートに新旧ソラリスをいれてみる。『惑星ソラリス』に対する期待が大きくなる半面・観るのが怖くなる、観ることによって『ソラリス』を駄作だと言ってしまうようなことにならないことをただただアーメン。

 

 

 

“Hello, my name is John Merrick”

 

117日前に三日坊主にならないようにがんばると言ったわたしは時のはざまに流されていました。『エレファント・マン』を観て、思うところがあったので久しぶりに記事を書こうとする。進学するつもりが就活することになったので、これからは積極的に本を読んだ感想や映画を観た印象など記録に残していきたいと思う。まとめるのも下手だし月並みなことしか言えないけれど、ただの社会人になった私の言葉はどんどん周りに溶けて薄れていくだろうから。その前に社会人になれるのかしらと思ってしまうようでは就活に負けてしまうのだ。

 

デヴィッド・リンチエレファント・マン』、これを知ったのは以前も名前を出した大瑛ユキオの『ケンガイ』という漫画から。『ケンガイ』から受けた影響は結構大きくてなにを隠そうこの漫画を読んでレンタルショップでバイトすることを決めたのである。ツ○ヤじゃないけど。『ケンガイ』は『エレファント・マン』が作品の核にあって、『ケンガイ』にいたく感銘を受けて以来ずっと観たいな~と思っていたのになんとなくバイト先で映画を借りるのをめんどくさがっていたら今になった。でも社割使わないのもったいないな~と返却しながら棚を観ていたら目に入ったので、天啓。

 

前置きが長いとナルシストみたいだな~。閑話休題。この言葉を使ってみたかったから。

バイツの見世物小屋で姿を見せたメリックは本当に恐ろしかった、けれどそれ以上にメリックの姿を見て涙を流すトリーブス氏がとても美しい。この映画はとにかくよく人が静かにはらはらと涙を流して、その度アップで抜かれていた印象がする。誰かが涙を流すたびに私はその涙の美しさに息がとまる。息といえば始まって30分くらいは観ていてずっと息が苦しくて、なんでかっていうと観てるとわかるんだけど人外みたいなメリックの呼吸音がヒーヒー響いて画面の外にも圧迫感が伝わってくるんだよね。心臓がみんみんと痛かった。けれどはじめて病室でメリックの姿が映された時、見世物小屋とは打って変わって優しい目をした彼を見てあれって思う。メリックが「頭が弱くてよかった」と言われる度なんて残酷な言葉なんだろうと感じていたけれど、メリックが意思疎通をできることを知りその残酷さが一層増す。“Hello, my name is John Merrick”、“Hello, my name is John Merrick”、“Hello, my name is John Merrick”……。「彼の人生は誰にも想像できないと思う」という言葉の深度。メリックが病院でも見世物になってしまうのは、「もし母を見つけることができ、僕が素敵な友達といるところを見たらこんな僕でも愛してくれるかも」とメリックが言ったことをトリーブス氏が気に留めていたからなのか、そうでないのか、私には判断しきれなかった。とにかくメリックが再び辛い目に遭わないように、遭わないように、そう祈りながら観ているのに、世の中には悪意が満ち溢れていて、メリックは再びバイツの見世物小屋にとらわれる。『アルジャーノンに花束を』に似ていると思ったけれど、こっちの方が悪意にまみれている。それもただの悪意じゃなくて、純粋で無邪気な悪意。すごいありふれた言い回しになっちゃったキマリが悪いけれど、それ以外にぴったりする言葉が見つからなかった。ウーン語彙不足。バイツのことを結局不器用な人間だったという言葉で片付けていいのだろうか。終盤ずっと見られる側だったメリックが演劇を鑑賞して初めて見る側に回るけれど、ケンドール婦人に紹介されてメリック氏に拍手をした人々はきっといつかどこかで見世物小屋を見ていた人たちになる/なっていたんだろうなと思うとやるせなくなる。トリーブス氏がしつこくおやすみと告げる時、壁の端にかけられた眠る子供の絵が映る。これで終わりなんだなって予感。

 

今はまだもう一度観たいと思えないけれど、間違いなく生きているうちに観ることができてよかった映画だと思う。「俺たちみたいなのには“運”がいるんだ」そうして私は明日の朝に速達で出さなければならないエントリーシートにようやく手をつけるのだ。

 

 27:12追記

この記事を書くのに引っ張り出した『ケンガイ』を読み返すと、『エレファント・マン』についてヒロインが「仲間がいるって思って。あの主人公と自分が同じとかいうのはおこがましいけど。気持ちはわかるよ。」って言ってて、記事に何回も書こうか書かまいか悩んで結局消した文章も人の言葉を借りれば書けるんだって知る。エントリーシートはまだ白紙。

 

 

 

『ジョゼと虎と魚たち』


ジョゼと虎と魚たち』を読む。本当は映画版が見たかったのだけれど、レンタル会員登録をしていないため、とりあえず小説を買ってみる。登録して借りた方が安く済むということは考えないでおく。タイトルはとても洒落ているが小説の表紙はとても庶民くさいというか気取ってないというか、実家に住んでいた頃近所で嗅いだことののある生活臭。てっきりもっとエモエモ~とかおしゃサブ~系でくるのかと思っていたので背表紙で手に取ってみてびっくりする。山村くみ子がジョゼという名前を選んだ理由はジョゼという少女が各々の作品内で愛されているからであろうか、フランス小説はあまり読まないので詳しくはわからないのでいつかジョゼという少女が登場する作品を読むときは気に留めたい。作品全体でツンとしたジョゼがいじをはりながらも恒夫の気を引こうとする様子、いじらし~。それからどんな理不尽なことを言われても大抵は許してしまう恒夫、サイコーかな?短編だから必要最低限の場面しか描かれていなくて、これが長編であればきっともっとドロドロとしたものになるのであるのだろうけど、その最低限が重いはずの事情などをそぎ落としている。長さは力だ。「完全無欠な幸福は、死そのものだった。」という最後のシーン、「すべての幸福な家庭という物は似通っているが不幸な家庭という物はめいめいそれなりに違った不幸があるものだ。」というアンナ・カレーニナの文章を思い出した。しかし不幸な家庭も似通っていると言えば似通ってるのではとも思うがトルストイを全く読んでいないしあまり口にするのはやめておく。ジョゼ、「アタイたちはお魚だ」

私的なこと。私は自分が関西出身だからか関西弁をとてもダサイと思っていて軽度のものであればまだしもコテコテの関西弁は読む気にもなれないほど萎えてしまうことがあるのだけど、この作品において関西弁の漂わせている哀愁。なんなんだろうな~・。風土として東京よりも大阪の方が生臭いというか泥臭いものがある気がする。あまり大阪に行ったことがないので偏見かもしれないが、今でも環状線の某駅での無賃乗車するサラリーマンやコンビニで買ったものをコンビニの中で食べる高校生たちが忘れられない。この哀愁というのは私が関西で生まれ育ったってことは関係あるのかないのか、しかし方言で書かれたものを読むということは思っていたより悪くないかもしれないな~なんて。もっと感覚的でおおざっぱなことではなく、論理的に分析などしてみたいのだけれど、まだそこには至れない。いつかそのうち、希望的観測。映画版も絶対視ようと胸に決めて今日はおとなしく課題をやります。

 

 

 

はじめ

 

ブログをはじめてみました。初期ブログ掲示板ミクシィツイッターフェイスブックを経験し、もうブログなんてやることもないだろう、と長年なんとなくぼんやり考えていたのですが、よくよく思えば頭のいい人は大体みんなブログを書いているなと思い、俗物的かつ短絡的思考回路を持ち合わせている私はわたしもあたまよくなりたいぞいとアホな考えでブログを開設するに至る。

ブログといえばこういった日記は紙に残すのがいいかネットに残せばいいか時々たまに結構考えて、どっちにも利点があるよなとなあなあにすることが多かったのだけれど、ブログをはじめてしまったのでついに私もネット派になってしまった。久しぶりにブログを書くと、いつもツイッターなんぞにぞんざいなぶつ切りツイートを叩きつけているのに、なぜかとても新鮮な気持ちがするね。久しぶりすぎて、誰に見せるというわけでもないのに自然と語尾がですます調になってしまいあわてて書き直す。三日坊主にならないようがんばるぞい