ドガ・ダンス・デッサン

ことばにする練習帳 @hase_3sec

『ジョゼと虎と魚たち』


ジョゼと虎と魚たち』を読む。本当は映画版が見たかったのだけれど、レンタル会員登録をしていないため、とりあえず小説を買ってみる。登録して借りた方が安く済むということは考えないでおく。タイトルはとても洒落ているが小説の表紙はとても庶民くさいというか気取ってないというか、実家に住んでいた頃近所で嗅いだことののある生活臭。てっきりもっとエモエモ~とかおしゃサブ~系でくるのかと思っていたので背表紙で手に取ってみてびっくりする。山村くみ子がジョゼという名前を選んだ理由はジョゼという少女が各々の作品内で愛されているからであろうか、フランス小説はあまり読まないので詳しくはわからないのでいつかジョゼという少女が登場する作品を読むときは気に留めたい。作品全体でツンとしたジョゼがいじをはりながらも恒夫の気を引こうとする様子、いじらし~。それからどんな理不尽なことを言われても大抵は許してしまう恒夫、サイコーかな?短編だから必要最低限の場面しか描かれていなくて、これが長編であればきっともっとドロドロとしたものになるのであるのだろうけど、その最低限が重いはずの事情などをそぎ落としている。長さは力だ。「完全無欠な幸福は、死そのものだった。」という最後のシーン、「すべての幸福な家庭という物は似通っているが不幸な家庭という物はめいめいそれなりに違った不幸があるものだ。」というアンナ・カレーニナの文章を思い出した。しかし不幸な家庭も似通っていると言えば似通ってるのではとも思うがトルストイを全く読んでいないしあまり口にするのはやめておく。ジョゼ、「アタイたちはお魚だ」

私的なこと。私は自分が関西出身だからか関西弁をとてもダサイと思っていて軽度のものであればまだしもコテコテの関西弁は読む気にもなれないほど萎えてしまうことがあるのだけど、この作品において関西弁の漂わせている哀愁。なんなんだろうな~・。風土として東京よりも大阪の方が生臭いというか泥臭いものがある気がする。あまり大阪に行ったことがないので偏見かもしれないが、今でも環状線の某駅での無賃乗車するサラリーマンやコンビニで買ったものをコンビニの中で食べる高校生たちが忘れられない。この哀愁というのは私が関西で生まれ育ったってことは関係あるのかないのか、しかし方言で書かれたものを読むということは思っていたより悪くないかもしれないな~なんて。もっと感覚的でおおざっぱなことではなく、論理的に分析などしてみたいのだけれど、まだそこには至れない。いつかそのうち、希望的観測。映画版も絶対視ようと胸に決めて今日はおとなしく課題をやります。